2017年6月30日金曜日
本当に才能があり莫大な利益を出せる人間は「働かされてます」と言って良いと思う
「会社」のブログなのに仕事について一切書いていないことに気がつきました。もしも仮に興味を持ってくれた高校生なんかがコレを見てどう思うか? ってことです。ヨダレがどうとか、どうでもいいじゃないかと。と言うわけで、本日はマジメに。
「仕事」云々ではなく、「働く」という事について。
「社畜」だの、「ブラック企業」だのって言葉、あるじゃないですか。私はアレ、「働く」という概念がこじれているとか、ねじれている、と思っています。多分、社畜だのブラックだのって言いながら働いている人って、「働かされている」と思っているのではないかと。経営者、経営側が無理矢理働かせて、奴隷化していると。で、社畜と呼ぶと。
私個人的には、現代日本において、よっぽど特殊な事情が無い限り、「奴隷」なるものは存在しないと思っています。タコ部屋だの、マグロ船に乗せてだのも、ある程度はあるとは思います。が、少なくとも一般に存在する企業はそれをするのはまず無理です。それを考えると、ブラック企業なるものに囚われ、社畜として働いている、働くしかない、と思っているのは、そう言っている本人の意思じゃないかとすら思います。
で、そもそもの起点として、会社が募集を出し、そこに応募してくるのですから、その時点では「働きたい」と思って来るはずなのです。町へ出て、ワンボックスカーに詰め込んで、気がついたら山奥だった。っていうのなら、分からなくもないですが。「辛いけど、ココで働くしかない」と思っているのは、働かされている、社畜だ、と考える本人の話なんだと思います。
何が言いたいかと言うと、「働かされる」と考えるのか、「働いている」と考えるのには雲泥の差があると言うことです。意思を持たずに会社や社会のせいにして働かされていると考えるのか? 自分で意思を持って働くと考えているのか? です。結局は、自分自身に対しての「責任」の話だと思うのです。自分の人生なのに、どこかにその責任を持たせる形にして、或いはそう考え、自分の身に降りかかってくることなのに、「自分は悪くない」と考えてしまう。
社畜だ、ブラックだと言いながらそこで働き続けることを選んでいるのは自分です。「一度会社を離れると再就職が困難で」という理由もあるでしょう。しかし、それが自分自身に降りかかってくる事を遮る物になるでしょうか。結局はどんな場合でも自分で選び、自分で決めているのです。その責任をどんなに外部に向けても、結果を受けるのは自分自身ですから。
私はどんな状況にあっても、能動的に自分が決めて「働いている」と考える人間です。その先を良くするのも、悪くするのも自分自身だと思っています。社員という立場なら、自分の思うとおりに出来ないかも知れません。しかし、その立場を選んでいるのは自分です。経営という立場なら、どんな言い訳も成立しません。結果が全てです。
社畜が存在しない、ブラックじゃない、むしろホワイト、っていう企業って完全に民間であればどのくらいあるのだろうと思います。資本主義経済において(とは言え共産圏もかなりの貨幣経済ですので、資本や貧富の差はアホみたいにありますが)、民間の企業で働き、そこから給与を発生させ、自分の生活を成立させるっていうのは、自分以外の誰かを貧乏にさせるって事を意味しています。
つまり、各企業とも、必死でお金をかけて闘っているわけです。社会貢献だのは結果論です。企業という利益を追求する団体は、利益を出す、つまり社会にとって無くてはならない存在になって初めて社会貢献が出来るのですから。経営者も社員も、本来のほほんとしていられないはずなんです。ホワイトで安定しています。残業もありません。→急に倒産、なんて話はいくらでも存在していますし。
経営であれ、社員であれ、「誰かに働かされる」のは大嫌いなので、私は自分で働いています。自分の人生や生活の責任を誰かに負わせることほど情けない物はありませんし。